↓以下のレビューは読書メモ的側面があるため、
未読である場合には一読してから読まれることをお勧めする。
文庫版の解説でCWニコル氏が指摘しているように(P264)、
書き出しからして凝縮された表現(それは著者の深い教養に裏打ちされたものだ)
が乱舞する小説である。
小説の舞台は(明示的に示されてはいないが)1968年夏のパリ。
ベトナム戦争に従軍記者として取材経験をした小説家は、
戦場で遭遇した凄惨な体験を経たのちに、人間関係の折り合いが付けられずにいる。
終日、安宿の部屋に引きこもる。
かつて小説家と関係のあった女
(可能性のない日本を捨て、知識人としてドイツと思しき国で成功をおさめようとしている)
と再開し、食べて寝て交わっての「甘い生活」を繰り返す。
舞台を女の生活するボンと思しき街に移しても、男の無気力は変わらない。
女の今後の関係への「期待」と、小説家の「逃避」志向のギャップは、
女を苛立たせ、感情を激発させる。
気分転換で訪れた山の湖で男はいつになく能動的になるが、
山を降り東西分断下のベルリンで決定的なニュースを耳にする。
眠ること、性を貪ること、食べること。そして天候であるとか、
一日の日の移ろいの描写の魅力。感情を激発させた女と小説家の間の会話は
(P141~147、P232~236)、これでもかと言わんばかりに話法を変えることで、
その瞬間の緊張感を否が応でも高める。
身勝手な男の小説?
確かに、そのようにも読むことができるだろう。
話法を変えた痴話喧嘩の後の女の描写をみると、とくにそう思えてくる。
だが、それだけだろうか?
戦場で究極的な体験をした小説家は、生きる実感を日常の中で得ることができずにいる。
宮台真司のような言い方をすれば、
<世界>に触れてしまったため<社会>を生きることができない。
そしてまた<世界>へと回帰する。本書は、そんな小説なのである。
評論家江藤淳は、開高健の担当編集者である坂本忠雄氏が、
開高健を見捨てたために作家生命を「殺した」のだという。
ほかならぬ坂本氏は、ホストを務める座談集「文学の器」(扶桑社)で本書を採りあげ、
凝縮された表現ゆえに開高が苦しみぬいたという創作秘話を披露する。
一度ならず二度三度と、再読したい作品だ。その際、上記の「文学の器」の該当部分を参照すれば本作品の感興はさらに増すだろう。
名作である。
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